多宇宙論について (ジム・ホルトの「世界はなぜ『ある』のか」を読んで)

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」 

なぜ答えのないこの問題を我々は考えたがるのだろうか?おそらくそれは、私たちの脳みそが、何も無い状態がニュートラルであると思っているからだと思う。まず何も無い状態が基本である、と私たちの脳は考える。数学の座標の原点は0である。自然数集合論では0から始まる。 
なにかが有る状態というのはさまざまなバリエーションがある。つまり、どの具体的なケースを取り上げてみても「偏り」がある。だが、無い状態というのは一意的に決まってしまう。偏りがないのである。「無い」ことが思考上の原点として意識されることについては十分納得できる。 

なのに、この我々の住む世界というのはあまりにも特殊である。ことにこの地球には自己組織化した生命体があり、自分自身を意識する私たちがいる。偶然できたにしては、あまりに特殊過ぎる。 

ここには、「特殊過ぎる」=>「有りえない」という感覚が働いている。 

この『特殊感』を減殺する方法としては2つ考えられる。ひとつは、この世界をこのようにあらしめている大いなる意思、つまり神さまを設定することだが、もう一つ、ジム・ホルトの「世界はなぜ『ある』のか」には「多宇宙論」というのも紹介されている。 
それによると、我々がいる宇宙とは別にあらゆるバリエーションの宇宙が存在するらしいのだ。それぞれの宇宙は没交渉でいわゆるパラレルワールドとして存在している。 
とにかくあらゆるバリエーションの宇宙があるので、たまたま私がいるようなこんな特殊な世界が有ってもちっとも不思議ではない。 

おもわず、「えーっ、そこで納得するんかい!」と言いたくなるのだが‥‥。 

とにかく、この問題に人々がいろんな思考を巡らしていくことについては興味が尽きない。実に面白い。