無限大というのはあるのか?

哲学者のウィトゲンシュタインは、自然言語(日常語)で人間の考えることはすべて言い表せると考えていた。それどころか、過剰な表現力により思考し得ないものまで表現してしまう。若い頃は、哲学上の問題のほとんどがそのような言葉の誤用であると考えていた。

すべての盾を貫き通す矛とすべての矛を撥ね返す盾。そのように存在しえないものを言葉では表現できる。表現はできても、その指示対象であるものがどのようなものであるかは私達にはわからないのである。

ウィトゲンシュタインが生前に残した唯一の著書「論理哲学論考」に次のような一節がある。

 6.021 数は操作の冪である。

冪(べき)というのは繰り返しを重ねることの意味にとるべきだろう。現代数学では数を実在のものとして扱うが、ウィトゲンシュタインは「操作」の繰り返しであると解釈する。するとどうなるか?

数は操作であるから、はじめからそれが存在しているものとしては扱えない。現代数学では「すべての自然数」を既存のものとして扱うことができるが、数が操作であればそれはできない。数が操作であればそれはすべて枚挙されたものでなくてはならない。自然数は限りなくあるわけだから枚挙しきれるわけがないのである。そして、ウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」においてこうも言っている。

 6・031 集合論は数学では全くよけいである。

ウィトゲンシュタインにとって、無限とは文字通り「限りがない」つまり数えきれないという意味以上ではないのだ。それに対し、現代数学では矛盾なく定義できさえすれば、すべて数学的実在として扱える。だから自然数の全体だとか平面上の全ての点の集合であるとかを「実無限」として簡単に扱えるのである。集合論のほとんどの重要な成果は無限集合に関するものだと言っても過言ではない。もし、ウィトゲンシュタインの言い分を受け入れるならば、数学は今までなし得たことのかなりのものを失うことになってしまうだろう。

しかし、ウィトゲンシュタインの言い分にも一理あることは確かなのである。自然数全体などというものをわれわれは決して直観することはできないし、無限集合の全体と部分は一対一に対応するなどという直観に反することがなにを意味しているかを具体的に理解することができないのである。

代数学を肯定する立場を(数学的)「実在論者」、ウィトゲンシュタインのような立場を、「構成主義者」とよぶ。現在のところ構成主義者は劣勢であるが、いまなお決着がついたわけではない。