バイオリニストHIMARI14歳
バイオリニストでひまりさんというすごい天才少女がいるという噂を聞いてはいた。NHKスペシャルでその人の特集があると言うのでビデオ録画していたものを聴いてみて驚いた。私のような素人が聴いてもものが違うということはわかる、聴いている誰もがその圧倒的な技量に引きずり込まれずにはいられないはずだ。
彼女はフィラデルフィアのカーティス音楽院で学んでいる。入試はかの有名なジュリアード音楽院よりも難しいと言われている、学費は全額免除の超エリート学校である。そこの学生は言わば神童ばかりなのだが、その神童たちが『どうしてあんな演奏ができるのか?』と感嘆する。カーティスには10歳で入学してすでに4年経つが、未だに彼女は最年少である。この学校の制度はよく分からないがどこでどういう風になれば彼女は卒業することになるのだろう? 彼女を指導するアイダ・カバフィアン先生は、「このままでいくと彼女はとてつもない演奏家になるだろう。』と言う、しかし同時にこうも言う「神童が偉大な音楽家になるのはとても難しい。多くの神童の苦闘を私は知っている。彼女を偉大な音楽家、立派な大人に成長させるのが私の責任です。」
悲しいかな素人の私には神童と巨匠の区別が分からない。彼女の演奏を聴いた聴衆の一人は「彼女はまるで巨匠のように弾いていた。」と述べた。私もそのように思う。単に小さな子がバイオリンをとても上手に弾くという物珍しさだけで、ベルリンフィルやウィーンフィルなどの世界中の名だたる交響楽団が彼女と共演したがるはずがない。誰もが既に彼女の並々ならぬ力量を認めていると思う。もうすでに「偉大な音楽家の領域」に足を踏み入れているのではないのだろうか?
番組中にはカヴァフィアン先生やいろんな指揮者たちが語る場面があったが、彼らの言語による表現力の豊かさにはとても感心させられた。一流の芸術家は凡庸な私のような人間が見過ごしがちな機微を的確に捉えて、それをきちんと言語化することができる。その表現力が一流を一流たらしめているのだろうと感じ入った。ひまりさんとカヴァフィアン先生の間に次のようなやり取りがあった。
ひまり「暗譜で来ているか自信がないんです。」
カ先生「暗譜できてない!? 冗談でしょう! 本気で言っているの?」
「ちゃんとできているわよ」「自分で自分に暗示をかけてはダメです」
「それは迷いを抱え込んで わざわざ自分を不安にしているだけ」
「もう手放しなさい。そんな疑念は入る余地はないの」
「リスクを恐れないで!」
日葵さんはもう楽譜を追いかけ忠実に演奏するというようなレベルの演奏家ではない。そんなことは彼女にはとっくの昔に出来ている。偉大な演奏家にとって楽譜は自分自身の表現を実現するための題材に過ぎない。そんなもの手放して自由に表現しなさいということなのだろう。先が楽しみである。

「無常観が現実肯定を生む」 BY タモリ
撮りためておいたビデオのNHKの「知的探究フロンティア タモリ・山中伸弥の!?」という番組はなかなか興味深い内容だった。その中でタモリさんが言った「無常観が現実肯定を生む」という言葉が印象的だった。仏教でいう「無常」とか「空」とかは否定的なニュアンスがあるのでネガティブな印象を受けるが、仏教自体はちっともネガティブではない、仏教がなにを否定しているかと言うと固定的なものを否定しているだけである。それともう一つ覚えておかなければならないことは、この世の変転は私たちの希望や意思とはかかわりなく偶然的に流動していくということである。この辺はすべては唯一神の意志によるものとするユダヤ・キリスト教と全く違うところである。だから仏教は地動説も進化論も否定しない。こんなことを言っているとある人から「それではあなたの言う仏教は唯物論ではないか」と言われてしまった。仏教は決して唯物論ではない、唯物論とは矛盾しないというだけのことである。
例えば、我が子を亡くした母親は悲嘆にくれるしかしその子を生き返らせることは出来ない、それが無常ということである。この世界は決して私たちの思い通りにはいかない。一時は嘆いたとしてもやがてそのことを受け入れなくてはならない、それが執着を断つということである。執着を断つためにはある種の発想の転換が必要となる。世界は常に流動しているのだから厳密なことを言えば、本質を伴ったものは一切存在しないつまり空であると仏教は主張する。子への愛情それさえも空であるというのだ。だから必ず癒えるはず。なにものも絶対視してはならないと説くのが空観である。私たちはなぜ執着するのか? それは考えるから。私たちは言葉でものを考える。言葉はものごとを概念によって固定する。その結果私たちはどうしても思想を絶対化しがちになるのです。
「空」というのは仏教の知的側面、いわば哲学である。しかし、それだけでは単なるニヒリズムに陥ってしまう。「一切皆空」だけでは人々の生きるための指針になるはずもない。人間には知性だけではなく感性的な側面もある。私たちは感覚に包まれている。いかなる刺激も先ず感覚から入ってくる。いかなる欲望も必ず感性と結びついている、欲望がなければ意志もまた生まれない。知性はその意志を実現させるための言わばツールのようなものである。人間は感情と知性の生き物と言われるが感情の方がより根源的である。
「一切皆空」は仏教の知性面が下した結論である、そしてそれは正しい。そこから仏教は「執着してはならない」という結論を導き出す。しかし、それは無感覚になれということでは決してない。色即是空とは言っても「色」は私たちの感覚に常に働きかけ続ける。無常の世界は変動し続けて止まることはない。そこから何か本質的な意味を読み取ろうとして決して叶わない。なぜこの世界はこのようであるのか? なぜ私は今ここにいるのか? なぜ私は他の誰でもなくよりによってこの私なのか? それに対する知的解はあり得ない。だからこの世は儚いか? そんなことは決してない。確かに不思議ではある。私たちにはこの世の肝心なことは何も分からない。そのような視点に立って私たちに現前する世界見つめると、あらためて圧倒されるものを感じるはずだ。それを仏教では「妙」と呼んでいる。妙を感じるその感受性が慈悲(愛-仏教用語)に通じているのである。
進化論と神の意志
進化論を否定する人は多いが、大抵の人はその理由として鳥の羽や目をとりあげる。「空を飛ぶという目的にかなった複雑かつ無駄のない構造は、高度な設計理念がなければ何億年かかっても出来ないでしょう。」と言うのである。確かに「鳥の羽が何億年かかってもできない」というのは当たっているかも知れない。初めて生命体ができたのが約40億年前、初めて鳥が出現したのが1億数千万年前とされているから、ざっと38億年くらいはかかっていることになるからである。
目や鳥の羽を理由に進化論に反対する人はダーウィンは「適者生存」という言葉を「最適者生存」と勘違いしているのだろう。明らかに生存に無駄で不利な形質を抱えていても、運も含めて最低限生き延びる条件さえあれば個体は生き延びて子孫を残す。鳥の羽をあげつらうなら、ダチョウについて考えてみたらどうか? ダチョウの羽は全然飛ぶための役には立っていない。速く走るためなら別に羽ではなくもっと洗練された形のものであった方が良いような気がする。つまり、ダチョウは無駄な形質を抱えながらも生きながらえて子孫を残し続けている。生き延びる種としては必ずしもその形質が洗練されていなくともよいのである。そしてまたいつかダチョウの子孫により強力な羽をもつものが出現して空を飛べるようになるかもしれない。そういう可能性は有る。 目については鳥の羽よりもっとできにくいような印象を受ける。しかし、その方の実証的な研究はかなり積み重ねられていて、目の進化についての一般向け解説書も沢山出版されている。40億年という時間は我々の想像を絶するものなわけで、その間に生まれる生物の個体数もさらに想像を絶するの上を行くものとなる。形質の変異の多くは生存に不利なものだが、母数が多ければその中に生存有利な変異が出現する可能性は高いと見るべきだろう。
目や鳥の羽を理由に進化論を否定する人はたいてい次に超越的な意志というのを持ち出してくる。つまり、目や鳥の羽のように複雑であまりに高度な働きをするものが自然に出来上がるはずがない。自然にできる上がるはずがないから、それには超越的な意志や意図が働いていなければならないというのである。目や羽が偶然に出来上がるということは感覚的には受け入れがたいので、そこには意図的ななんらかの力が働いていると考えた方がつじつまが合うという主観的見方である。
この世界が超越的な理念に従っているという考え方は全然問題ないと私も思う。もともとこの世界がこのようである理由というのは誰にも分からない、あえてそれを神であるとしても良いと思う。いわばそれは未知のものをX(エックス)という代わりに「神」と言うだけのことだから。その紙に自分の願望を投影して「神はこの世界を理想的なものしようとしている」と考えるのも良いと思う。それが信仰するということであり、人は自分の信じたいものを信じる権利があると私も思う。
しかし、自分の信仰を盾に「学校で進化論を教えてはならない」と言い出すのは明らかに行き過ぎである。進化論が上記で述べた超越的な意志に背いているという証拠はどこにも見当たらないからである。
人気者の足を引っ張るひねくれものと罵られても、文句を言い続けたい。
1998年度以来28年ぶりにプライマリーバランス(PB)が黒字になるというニュースが流れたのは昨年の暮れのことだった。PBとは基礎的財政収支のことである。それが黒字であるということは行政にかかわる費用が全て税収によって賄われることを意味する。つまり、国債発行による収入は国債償還以外の用途に使用されることはないということである。
内心私は「ほう、すごいな」と思った。PB黒字が続けば「国債残高/GDP」は縮小していくはずである。それを続けていけるようなら高市さんの「責任ある積極財政」の責任は本物である。それがである、約わずか一か月後の1月23日に「高市首相、『財政収支』黒字化目標を単年度から数年単位へ見直し指示」というニュースが流れた。
26年度に黒字にならなければもう絶対と言ってい良いほど黒字は不可能だ。というのは、ついこの前まで長い間日本はゼロ金利政策を続けていたからである。したがって国債金利も低くて済んだ。つまり、すでに発行済みの国債は極めて低金利だったということである。しかし、2024年からは風向きが少し変わってきた。あまりの円安で輸入品の価格が高騰し物価が上昇しだしたからである。物価が上昇すると企業は商品やサービスを値上げする。本格的なインフレ時代の到来である。インフレになると企業の利益も増える。したがって税収も増える。26年度から数年間はPB黒字の可能性が最も高くなる時期である。インフレが進んでくると長期金利も自然と上がってくる。26年度で黒字にならないなら、今後黒字化の見込みはあり得ない。防衛費を上げるなんてことをすればそれはまた夢の夢である。国債残高の対GDP比を増大させないためには意図的にインフレを起こし続けるしかない。
しかし、PBの赤字を防ぎかつ日本経済を活発にする方法はまだある。高額所得者の課税率と法人税率を上げればよいのだ。政治とは極論すれば「税金をどこから徴収してどこに還元する」かである。税金は所得の再分配、つまり高い所から低いところに流せばよい。政治家は誰にもいい顔をしたいからつい減税には積極的になる。選挙のたびに税法を変えてばかりである。結局取りやすいところから取る消費税に頼るようになってしまった。このままだと消費税が20%になる日もそう遠くないと見た。
日本ファーストという幻想
日本ファーストが国政選挙のスローガンになりうるとは、日本もけちくさい国に成り下がったものだとつくづく思う。外国人優遇をなくせば自分の暮らしが良くなるなどという発想はどこから出てくるのか。外国人が日本の健康保険制度や年金制度、生活保護制度で甘い汁を吸っているなどという主張がどれほど確かな根拠に基づくものかは知らないが、それをなくせば自分の暮らしがどれほど改善されると思っているのだろうか。外国人によって自分が本来受けるべき利益が損なわれているというのはおそらく幻想だろう。そのような方向に人々の目を向かわせようとする政治家を決して信じてはいけないと思う。
それどころかもはや日本は外国人労働者なしには円滑には回らないところに来ていることを人々は認識すべきである。コンビニや外食産業、介護業界など至るところで外国人が働いている。たいていは日本人の平均よりは低い給料の労働者である。そういう人々がいるから大方の日本人は本来享受すべきよりも豊かな生活水準を保っていると考えた方がよい。
私はコンビニで買い物や宅急便の依頼をするたびに彼らの働きぶりに感心する。コンビニで扱う商品は多種多様である。単に金銭を受け取るだけではなく、荷物の受け取り手続き、たばこや切手ハガキの受け渡し、弁当などを温めるなど、多様なバリエーションの対応が要求される。想像したことがあるだろうか、もし自分が日本語の通じない外国で同じような仕事ができるかどうか。彼らのほとんどは高い知性と能力と気力を備えた人達であることは間違いないと思う。本来ならもっと良い待遇を与えられて当然の人たちなのだ。日本の若年労働者不足を彼らが補っていてくれるおかげで、私のような年金暮らしの老人も貧しいながらも辛うじて体裁を整えて生きていけている。そう考えるべきだと思う。
今朝の思いつき2件
私が小学生の頃、アメリカのロカビリーがラジオからよく流れていた。今でも時々聞くととても懐かしい思いがする。それで今朝は目が覚めてから、ユーチューブで「ママギター」という50年代終わり頃の曲を聴いたのだが、自分がちょっと思い違いをしていたことに気がついた。歌の出だしの部分で "Hey, mama, mama guitar Hey, hey,mama guitar" という部分の最初に出で来る "mama" をその時の私は "mambo"だと勘違いしていたのだ。小学生の私が「ヘーイ、マンボー ママギツァー ヘイヘイ ママギツァー」と大声を張り上げて歌っていた姿を想い起すとちょっと恥ずかしい。さすがに小学校も高学年になると往来で声を張り上げるなどということはしなくなったが、大人になってからも時折その冒頭の部分が脳裏によみがえることはあった。それが76歳の今になって間違えて憶えていたことを知ったのである。
テレビ朝日のグッドモーニングという番組毎朝見ているが、その中に「お天気クイズ」というのがある。今日は下記のような三択問題だった。
◎問題『クニマスについて、正しいのは次のうちのどれか?』
① オスが卵を産むことがある
② 西湖にだけ生存する
③ 絶滅してしまった
正解は②なのだが、①を選択肢に挙げているのが面白いと思った。
出鱈目と言えば出鱈目なのだが、①で私も一瞬戸惑ったのは性転換する魚が結構いるからだ。
しかし、オスが卵を産むことはない。卵を産む方を私たちは「メス」と呼ぶからである。
読者の皆さんにはほとんどどうでもいい話ですが、ボケ防止の一環として私の一人よがりな頭の体操につきあっていただきました。
読んで下さって有難うございます。
高市総理も統一教会の世話になっていたのではないのか? とAIに聞いてみた
AIに次のように質問してみました。
『旧安倍派の何人かの政治家が旧統一教会員による選挙協力を受けていたと言われています。高市総理もその一人ではないのでしょうか?』
※※※※※※※※ 以下はAIの答え ※※※※※※※※
2026年1月現在、高市早苗総理大臣と旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の関係については、新たな内部文書の流出により大きな論争となっています。
高市氏本人は一貫して「選挙応援、行事出席、金銭のやり取り、祝電の送付などは一切ない」と公式に否定しています。しかし、最近の報道により、以下のような具体的な懸念や指摘が浮上しています。
1. 流出した「内部文書」での名前の頻出
韓国の教団本部へ送られたとされる極秘報告書(通称:TM特別報告、全3,200ページ)の内容が報じられ、波紋を広げています。
名前の登場回数: 文書内に高市氏の名前が32回登場していると報じられています。
教団側の評価: 文書には「高市氏が自民党総裁になることが天の最大の願いである」、「高市氏の後援会と我々は親密な関係にある」 といった教団側の主観的な記述が含まれているとされています。
注意点: この文書は教団幹部がトップ(韓鶴子総裁)を喜ばせるために作成した「私信に近いもの」であると教団側は説明しており、高市氏側との実際の合意があったかどうかは不明です。
2. 周辺人物の接点
高市氏自身に直接の証拠は見つかっていませんが、最側近とされる人物の接点が明らかになっています。
佐藤啓官房副長官: 安倍元首相が銃撃された2022年7月8日当日、奈良教会で行われていた「応援集会」に、佐藤氏の夫人が代理で参加していた事実を認めています。佐藤氏は当時、高市氏が支援していた参院選候補でした。
3. 過去のメディア出演
「世界日報」への登場: 2001年の教団系メディア「世界日報」の対談記事に登場していたことが判明しており、高市氏は2022年の会見でこの事実を認めています。ただし、当時は教団との関係は知らなかったと説明しています。
現状の政治的背景
高市総理は2026年1月23日に衆議院を解散し、2月8日の投開票に向けた選挙戦に入りました。野党側はこの内部文書の問題を捉え、「疑惑隠し解散」であると厳しく批判しています。
庶民の感覚からすれば「これほど名前が出るのは不自然だ」という疑念が拭えない一方で、高市氏側は「教団側が勝手に期待を寄せて書いているだけで、こちらには一切関係ない」というスタンスを貫いています。選挙戦を通じて、この説明責任がどこまで果たされるかが焦点となっています。
※※※※※※※※ 以上 AIの答え ※※※※※※※※
「世界日報と統一教会の関係を知らなかった」という言葉には驚くほかはない。嘘でも大胆につけば大部分の国民には分からないと思っているのだろう。大分前から統一教会の悪辣さについては噂されていたにもかかわらず、山上被告による銃撃事件が起こるまでは政治家も文部省も警察も手をこまねいていた。本来ならば公安警察がもっと早くから調査して刑事訴訟を起こすべきであったほどの事案である。統一教会にけつをまくられたら何が出てくるか分からないと政治家は戦々恐々としている。公安も文部省もそんな政治家に忖度していたと考えればつじつまが合う。
今回の極秘報告書(通称:TM特別報告)の流出も、「この問題をできるだけ穏便に済ませないとどうなるか分からないぞ」という協会側からの政治家に対するブラフであるとも考えられる。