脳が考えるのではない。私が考えているのだ。

 近年の大脳生理学の進歩により脳のはたらきというものがかなりよく分かってきたと言われている。それは結構なことなのだが、何もかもが脳という物質の働きであるというような考え方には何か引っかかるものがある。確かに脳という器官が私の精神作用に関係しているということは分かる。私が最近物忘れがひどくなっているのも、おそらく脳の老化現象ということで説明がつく。しかし、よくよく考えて欲しいのだが、世界中に脳は何十億と存在するが、この私は私だけである。
 御坊哲はまた何を馬鹿なことを言っているのだと思われるかもしれない。実に当たり前なことを言っているだけである。しかし、私にはこの当たり前のことが実に不思議なのである。なぜ私はよりによってこの私なのか? このことは科学がどれだけ進歩しても解明されることはないだろう。科学の埒外のことである。科学と言うのは、各現象間の関係性・法則性を見極めるただそれだけのことである。このわたくしの実存にかかわることを説明するということについては全く無力である。現在では、われわれの精神活動は脳神経の電気的な発火現象によって引き起こされるということになっている。例えば、空が青く見えるのは、空からの特定の波長によって視神経が刺激されるからであるとされている。そして、どの波長の光がどのような色になるかも知られている。しかし、ここで留意して置きたいのは、物理現象をいくら追跡してみても物理現象に終始するということである。どこまで行っても神経組織の発火現象の連鎖でしかない。その過程のどこにも「青い空」は出てこないのである。どの波長の光が目に入った時に青い色が見えるかということは予測できる。しかし、その波長の光が目に入るとなぜ青色が見えるのかということを科学は説明してはくれない。
 空の青さと言うのは実に私だけの実存的な視点からしか見えないのである。空の青さだけではない、カレーライスの匂いや味、猫の足の肉球の感触、そして私自身が考えていること、それらはみな実存としての私だけが見ることの出来るものである。実存的な視点と言うと難しく聞こえるが、もっとも素朴にものを見る視点のことである。架空の視点ではなく、今ここにある他ならぬこの私が見る視点を実存的視点と言うのである。現代人にはいつの間にか科学的視点が植え付けられている。科学的視点は自分自身をも客観的に見下ろす超越的な視点である。そこから見える自分は他者としての自分でしかない。脳細胞における発火現象云々という話は、あくまで他者を外から観察しているだけの話である。
 未来を予測するには世界を統一的にとらえる科学的視点が都合が良い。しかし、科学的世界というものはあくまで架空の視点から構成された世界に過ぎない。私が実際に生きているのはあくまで実存的な世界においてである。私はそこにおける「実感」を決して手放してはいけないと思うのである。

ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎編

(第一講より抜粋)------------------------------------------------- 
ある種の魅力をもった誤解が存在する。 

f:id:gorian21:20190328105906j:plain

「図1において、直線は円と交差しているのだが、それは虚点においてである」。この主張はある種の魅力をもっているのだが、それはいまや生徒に対してだけであり、数学を仕事としているような人に対してはそうではない。 
「交差する」は図2のように描かれるような通常の意味をもつ。しかし我々が、直線は円と−− たとえ交差していないときであっても−− 常に交差する、という証明を行うとする。そこでは我々は、「交差する」という言葉を以前には用いられていなかった仕方で使用している。我々は両者を「交差する」と呼ぶ。−− そして、「実点だけでなく、虚点でも交差する」という項目をつけ足す。こうした項目は類似性を強調するものである。即ち、これは二つの表現を同一視することの一例なのである。 
---------------------------------------------------------------------- 

私達は中学校で数学を習う場合に、二次方程式 X∧2 +1=0 の根は存在しない、というふうに教えられる。が、高校では複素数を学び、X=±i であると教えられる。この時、なにか新たな真理に一歩近づいたような気がしたのではないだろうか。ウィトゲンシュタインは「二次方程式は常に根をもつ」という言い方に別段抵抗しない。そのこと自体はさほど重要ではないという。ただし、数学が形式的な学問であり、その形式をわきまえた上での表現であるならばである。 
二次方程式 f(x)=0が解をもつということと、y=f(x) のグラフがy軸と交差するということは同値である。 y=X∧2 +1 のグラフはx軸とy軸からなる2次元平面の中では絶対に交わることがない。複素数を、x=x1+i・x2,y=y1+i・y2として考えれば、x1,x2,y1,y2はそれぞれ独立である。つまり、複素数を導入して y=f(x) のグラフを考えるということは、x1,x2,y1,y2という4本の軸の直交座標からなる四次元空間における図形を扱っていることになるのである。 
つまり、我々は「二次方程式は常に根をもつ」という『真理』を新たに発見したのではないということをわきまえておかなくてはならない。新しい形式を導入して、新しい計算方法を発明したのである。 

「シューベルト」という名前はシューベルトに完全にぴったりと合う

タイトルの文言は「言葉の魂の哲学」(古田徹也)の中に、ウィトゲンシュタインの言葉として紹介されていたのだけれど、とても腑に落ちる言葉だと感じた。 

私はあるとき新聞のコラムで「ウィトゲンシュタイン」という名を知った。その時は20世紀を代表する哲学者であるとだけ知っただけで、その他のことは何も知らなかった。もちろんあったこともなければ顔さえ知らない。その後「論理哲学論考」を読み、何となく異彩を放つ哲学者であると感じ、オーストリアの大富豪の息子でありながら相続放棄をしただとか、兄弟が3人も自殺しているだとか、情報はどんどん蓄積されていった。人物像はどんどん変化していく。当然、最初に名前だけを知っていた時と現在ではまったく違う人物像になっているはずなのに、「ウィトゲンシュタイン」という名で指示される人物は一貫してウィトゲンシュタインその人であったという「感じ」がする。 

注意深く反省すると、私達は最初に名前を覚えた時点で、その名前の指示対象を実体視していることがわかる。その人について何も知らなくとも、名前によりその人物枠というものが確保される。後からくる情報はその枠にどんどん充填されるだけなのだ。もちろんそこに実体的なものなどあろうはずがない、名前を知っているだけなのだから。だが、とにかく我々はそのように感じてしまう。いわゆる言霊というものであろう。言葉は単に記号であるに過ぎないが、われわれはそれに対してなんらかの相貌(アスペクト)を読み取ってしまうのである。おそらくそのことは、われわれが言語を使用できるための必須の要請なのだろう。 

上記のような話をしたら、ある方が新聞の歌壇に次のような歌が掲載されていることを教えてくれた。

  しばらくが たてばその名で最初から 
  生まれたように馴染むみどりご 

ウィトゲンシュタイン」という名前はウィトゲンシュタインに完全にぴったりと合う。

超越と実存 (南直哉)

南直哉さんは思想を仏教と仏教以外にまず大別する。それらを区別するためのキーワードが超越である。超越とは我々の経験や認識の範囲を超えるもののことを言う。例えば一神教の神様のようなものである。実存というのは規定するのは難しい。とりあえず、今感じている生身の感覚としておこう。

仏教は実存的な視点から世界を眺めることから始まる。そこに超越的なものを容れなければ、すべてのものに根拠がないことに気がつく。それが無常である。それを無常というのは定まった形がないからである。不断に流動しており、何かの形でとどまるということがない。常に過渡的かつ不完全で偶然的であるということが無常であるということである。

西洋には、世界は神が創り給うたものという思い込みが抜きがたくあり、したがってこの世界のすみずみまで神の理性が行き渡っていると考えられている。つまり、この世界は神の意図する超越的原理によって支配されているということなのだが、それを信じることができれば楽である。神の意図するところが真理であり善であるのだから、人はそれに従っていけばよいのである。

仏教徒はなかなかそういう訳にはいかない。目の前に無常が横たわっているが、その根拠は分からない。なすすすべもなく実存の不安におびえていなくてはならないのか? 仏教はそこで、その不安はその「実存」を実体視することからくるのだと説く。単なる関係性に過ぎないものを実体視しすることを無明と言い、それに執着することを煩悩というのである。実存を実体視する根拠は内在していないのだから、それは超越的に導入されたものに違いないと考えるべきである。すなわち無我であるということである。無我であることを知り、人は執着から解き放たれるというのが

人は「なんであれものごとにはそうである理由がある」という充足理由率という原理に支配されがちである。しかし、それも超越的な原理に過ぎない。超越を排除するということは、そもそも実存の根拠を問う理由がないということである。無常をそのまま受け入れる、そのような諦観に到達することが釈尊の説くところであろう。

以上のようなことを念頭に置いておけば、南師のいうところはすんなり腑に落ちる。南氏は「超越を排除」するという原則を貫くことによって、現職の僧侶としてはかなりラディカルなことを言ってのけている。この原則に照らすと、現在の日本の仏教というのはほとんどが釈尊の意図するところからは逸脱していることになってしまうからである。その徹底ぶりが小気味よい。まさに、「仏に逢うては仏を殺せ」と言うが、禅僧の面目躍如たるものがある。

第9章の「親鸞道元の挑戦」における親鸞に関する論考は私個人にとっては最も興味深いものだった。末橙抄の自然法爾章の「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。」を含む一節を引いて、親鸞が既に阿弥陀信仰から実質的に逸脱していることを述べている。素朴に考えればその通りなのだが、真宗教団が聞けば目をむくようなことを現職の僧侶が指摘する、これはなかなかインパクトのあることである。

最後に一つだけ注文をつけておきたい。163頁において、無門関第一則の「趙州無字」の「無」について「中国禅が老荘思想を背景に案出した、独自の超越的理念である。」と断じているが、いささか勇み足ではないかと思う。それでは禅門で最重要とされている公案が無意味なものになってしまう。私見では「無」は超越的理念などではありえない。哲学的に表現すると、それは「存在者ではない」ということそのことを指す。一般に、「世界は有る」とか「自分は有る」とか信じられているが、実はそれらは「金がある」とか「机の上にリンゴが有る」とかいう意味の「有る」とは同じ意味ではない。金が無かったり、リンゴが無かったりすることは考えられるが、世界が無かったり自分が無かったりすることは想定できない。

つまり、「世界」も「自分」も存在者ではないのではなく、それは所与なのである。なぜか、この世界は私の世界として開けている。常にそうなのである。そうでないことは考えられない。そのこと自体を「無」という言葉で表現しているのである。決して特殊な心理状態や超越的理念などではない。映画で言えばスクリーンのようなものである。映画の中にスクリーンは登場しない、いわば「無」であるが、映画はその「無」の上に展開されるのである。

自分自身がなんであるか、肉体や感覚などの対象化できるものをすべて除外していったその先に到達するのが「無」である。そんなものあり得ないと言ってしまったら、この世界が私の世界として開けている、ということはなかったはずである。それは有るとも無いとも言えないが、所与であると言っておこう。

 

善は定義できるか?

絶対善の定義を見つけたという人がいる。それは「種族の繁栄のためになることをする」ことだというのだ。確かに、われわれが「善し」とすることがらを一つひとつ検討すれば、それはことごとく集団の利益につながることと考えられないこともない。しかし、「現実にそうである」ことをもって、「そうすべきこと」としてしまってよいのだろうかという疑問はある。 

蜂や蟻ならばそれを絶対善の定義としても差し支えないかもしれない。彼らは常に巣を単位とする集団の為に尽くしている。必要とあれば自分の実を犠牲にすることもいとわない。その行為には一片のためらいもブレもないのである。彼らにとっては、「本能=善」である。進化論的に考えればそれも当然である。蟻も蜂も、同じ女王蜂から生まれた兄弟姉妹で巣を構成する。巣単位に淘汰圧にさらされるからである。 

人間も社会的動物であるから共同体単位で淘汰圧はかかるが、同時に個体単位でも淘汰のふるいにかけられる。集団単位の闘争になれば、犠牲的精神をもつ個体が多いほどその集団が生き残る確率が高くなる。しかし、その集団内では利己的にうまく立ち回る個体の生き残る確率が高くなるのである。ここにわれわれ人間の不幸がある。我々は皆、公のために犠牲になることを美徳としながらうまく立ち回ってきたものの末裔なのである。 

私の伯父は特攻隊の生き残りであった。特攻隊に選抜されたところで終戦になったのである。伯父が言うには、クラス全員が特攻隊に自由意志で志願したのだそうである。「死にたくない」などと言う臆病者は一人もいなかったらしい。なるほど全員が同じように献身的であれば、誰が生き残っても献身的な遺伝子の減少は防げるので問題はないはずだが‥‥。特高志願した伯父は「心底純粋な気持ちで志願した。」と胸を張って言ったのだが、しかし、彼の母である私の祖母の見方はもっと現実的である。「選抜されたのは皆貧乏人の子供ばかりやった。あのときの教師の顔は死んでも忘れへん。」  

人間は犠牲的精神だけをもっているのではなく、自分だけ生き残りたいという利己的な意志やそれをけん制するセコイ精神も併せ持っている。私達はそういうアンビバレントな存在であるから、「公のために尽くすことが絶対善である」と言っても、それは偽善である可能性が多分にある。そもそも、つくすべき「公=集団」の本質というものを規定できるかが疑問である。戦時中は国家という公のために命を差し出すのが最高善とされていたけれども、それは人類全体という公のための貢献にはなっていない。 

そして、時には罪を犯した肉親や友人ををかばったりすることも美徳に見えたりする。人間は一筋縄ではいかない複雑さをもっている。絶対善はそう簡単に定義できるものではないだろう。

語りえぬものについては沈黙すべし

「語りえぬものについては沈黙すべし」というのは、天才哲学者ウィトゲンシュタインが生前著した唯一の哲学書論理哲学論考」の結びの言葉である。なんとなく格好いいので哲学愛好家にはよく知られているが、なかなかその真意というのは分かりにくい。

ウィトゲンシュタインは「我々は論理に従ってしか考えることはできない」と言う。非論理的なことは考えることも想像することもできないというのである。というのを聞いて、「いや、俺なんかいつも非論理的なことを考えているぞ。」と言う人もいるかもしれないが、哲学者の言う「論理」というのは日常語と少しニュアンスが違う。ここで言う論理に背いて考えるというのは矛盾のあることを考えたり思い浮かべたりすることを意味する。

例えば、「円い三角」を思い浮かべることができるだろうか? 鈴木君と山本君が一緒に家に遊びに来たら訪問者は2人である、決して1人しか来ていないと考えることはできない。ソクラテスが人であり、かつ人は必ず死ぬということを信じているなら、あなたはもはやソクラテスが永遠に生き続けると考えることはできないはずだ。

以上のようなことを指して、人の思考は論理に支配されていると言うのである。「豚が空を飛ぶ」とか「太陽が西から昇る」というようなことは非現実ではあるが非論理的というわけではない。頭に思い浮かべることができるようなことは、奇跡的ではあるが絶対不可能というわけではないのである。大隕石が地球と衝突したために、地球の自転の方向が逆向きになれば太陽は西から昇ることも考えられるが、「円い三角」は絶対実現しそうにない。

人間が論理に反して考えられないのであれば、どうして間違ってばかりいるのだろうという疑問がわく。それはおそらく我々が言語を媒介にして思考するからに違いない。お父さんとお母さんから飴玉を一つずつもらえば、私の飴玉は必ず2つあると認識する。「1+1=2 」は必然である。しかし、私達は「1+1=1 」と書き間違えてしまうことはよくある。私達は円い三角を認識できないにもかかわらず。「円い三角がある。」と言葉にはできる。

私達は論理に従ってしか考えることはできないが、言語を誤用することがある。ウィトゲンシュタインは哲学上の問題のほとんどが言語の誤用によるものだと考え、「論理哲学論考」によって哲学上の問題は本質的にすべて解決されたとして、彼自身が本当に一時は哲学をやめてしまった。後に自ら「論考」の誤りを認めて哲学を再開するが、その「論考」は多くの哲学者に今も影響を与え着続けている。

「語りえぬもの」とは言葉の誤用を指すのであろう。具体的にどのようなものかについて考えてみよう。「命題」というのは言語や式によって表した一つの判断の内容のことである。その判断内容が意味あるものであるためには必ず真または偽となるものでなくてはならない。哲学上の言葉が有意味でなくてはならないのは言うまでもない話である。

 【 宇宙には始まりがある 】

上記の文は有意味な命題であると言えるだろうか? そう言えるためにはその内容が真偽判定できるものでなくてはならない。宇宙がある時点で始まったとしたら真であると言えるのは間違いない。しかし、問題はどういう事態を観測すれば『宇宙が始まった』と言えるかということである。その命題の意味を理解しているということは、その命題の真偽条件を知っているということでなくてはならないはずである。もし発話者が、なにをもって宇宙の始まりとするかを知っていなければ、「宇宙には始まりがある」という言葉の意味を彼自身が分かっていないことになる。

一件有意味であるように見えながら、実は誰もその言葉の意味を理解していないということがあるのである。仏教においては経験の到達し得ない形而上の問題には言及しないという原則がある。いわゆる『無記』である。「語りえぬものについては沈黙すべし」というのはそういう意味だと思う。

ゴールドバッハ予想の意味をぼくらは知っているのだろうか?

「命題の意味が分かる」というのは、その命題の真偽の条件が分かるということだろう。だとすると、その命題の真偽を検証する方法が分からなければ、その命題の意味を分かっていないということになる。だとすると、証明されていない数学的命題はだれもその意味を知らないということになるのだろうか?  ゴールドバッハの予想について考えてみよう。 

「全ての 2 よりも大きな偶数は2つの素数の和として表すことができる。」 

これはいまだに証明されていない。けれどもその意味するところは明瞭に理解できる(ような気がする)。少なくとも、表現に不明瞭なものは見当たらない。私は本当にこの命題の意味がわかっていないのだろうか? 

この奇妙な感覚はおそらく、この言明が無限の領域に及んでいるからだろう。証明すべき領域が有限であれば、私でも時間さえかければこれを証明できる。そういう意味では単純な命題に過ぎない。しかし、無限の領域にわたってこの言明を証明しようとすると途端に難しくなる。 

現在も未解決の数学問題は素数に関わるものが多い。おそらく素数と無限は相性がよくないのだと思う。素数の定義は「1と自分自身を因数として持たない正の整数」となっている。非常に明解な定義だが、ちょっと引っかかるのは代数的には表現しにくい定義であるということだ。 

例えば、3の倍数を表す整式は、 f(x)=3xのようにシンプルに表現できるが、素数の場合はそうはいかない。 
p(1)=2、p(2)=3、p(3)=5、p(4)=7、‥‥というふうに、素数をもれなく表現できる整式 p(x)が定義できたら、現在の数学の難問はあらかた片付いてしまうような気がする。そうはいかないのは、そのような都合のいい関数が存在しないからである。 

「1と自分自身を因数として持たない正の整数」という定義は、有限領域においては全く問題なく明晰である。しかし、大きい素数については、それまでに求めた素数が関係してくる。一見シンプルなこの定義は、重層的に繰り返されている、無限領域に拡張するのは無理があるのではないかと思う。定義し得たと思っているが、実は定義し得ていないということがないだろうか?