2018-01-01から1年間の記事一覧

「シューベルト」という名前はシューベルトに完全にぴったりと合う

タイトルの文言は「言葉の魂の哲学」(古田徹也)の中に、ウィトゲンシュタインの言葉として紹介されていたのだけれど、とても腑に落ちる言葉だと感じた。 私はあるとき新聞のコラムで「ウィトゲンシュタイン」という名を知った。その時は20世紀を代表する哲…

超越と実存 (南直哉)

南直哉さんは思想を仏教と仏教以外にまず大別する。それらを区別するためのキーワードが超越である。超越とは我々の経験や認識の範囲を超えるもののことを言う。例えば一神教の神様のようなものである。実存というのは規定するのは難しい。とりあえず、今感…

善は定義できるか?

絶対善の定義を見つけたという人がいる。それは「種族の繁栄のためになることをする」ことだというのだ。確かに、われわれが「善し」とすることがらを一つひとつ検討すれば、それはことごとく集団の利益につながることと考えられないこともない。しかし、「…

語りえぬものについては沈黙すべし

「語りえぬものについては沈黙すべし」というのは、天才哲学者ウィトゲンシュタインが生前著した唯一の哲学書「論理哲学論考」の結びの言葉である。なんとなく格好いいので哲学愛好家にはよく知られているが、なかなかその真意というのは分かりにくい。 ウィ…

ゴールドバッハ予想の意味をぼくらは知っているのだろうか?

「命題の意味が分かる」というのは、その命題の真偽の条件が分かるということだろう。だとすると、その命題の真偽を検証する方法が分からなければ、その命題の意味を分かっていないということになる。だとすると、証明されていない数学的命題はだれもその意…

リベットの0.5秒

最近の脳神経科学の進歩は目覚ましいものがあるが、とりわけ1980年に発表された「リベットの0.5秒」はかなりショッキングな発見であった。それは、我々が例えば腕を上げる場合、実際に腕が上がる0.55秒前に脳はそのことを決定しているというような内容であっ…

心はどこにある?

この問題の難しさは、位置というものの絶対的な基準がないことにもあるが、心というものがなにを指すのかがそもそも明確でないことにある。位置というのは物の世界におけることであり、物と心の関わりというものが明確でないかぎり位置も示せないはずである…

私はなぜ私なのか?

前回記事では、「世界はなぜあるのか?」という問題は、あまりにも根源的過ぎるがゆえに疑似問題である、というようなことを述べたのだが、今回は、この問題に劣らず根源的な問題として、「私はなぜ私なのか?」ということをとり上げたい。 唯物論者は精神活…

答えのない問題は疑似問題である

世の中にはいろいろ難しい問題がある。しかし、どれほど難しい問題であろうと、それがなにを問うているのかがわかれば、答えの形式については分かるものである。「テーブルに置いてあった大福が無くなったのはなぜか?」という問いならば、「食いしん坊の哲…

不可能物体

著名な宇宙物理学者であるペンローズは、一時期三次元空間の論理に反する物体を考えることに熱中したらしい。論理に反するものは想像することさえ不可能なはずだが、不可能に挑戦するのが天才の天才たるゆえんなのだろう。その結果として、ペンローズの三角…

無限大というのはあるのか?

哲学者のウィトゲンシュタインは、自然言語(日常語)で人間の考えることはすべて言い表せると考えていた。それどころか、過剰な表現力により思考し得ないものまで表現してしまう。若い頃は、哲学上の問題のほとんどがそのような言葉の誤用であると考えていた…

多宇宙論について (ジム・ホルトの「世界はなぜ『ある』のか」を読んで)

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」 なぜ答えのないこの問題を我々は考えたがるのだろうか?おそらくそれは、私たちの脳みそが、何も無い状態がニュートラルであると思っているからだと思う。まず何も無い状態が基本である、と私たちの脳は考える…