善は定義できるか?

絶対善の定義を見つけたという人がいる。それは「種族の繁栄のためになることをする」ことだというのだ。確かに、われわれが「善し」とすることがらを一つひとつ検討すれば、それはことごとく集団の利益につながることと考えられないこともない。しかし、「現実にそうである」ことをもって、「そうすべきこと」としてしまってよいのだろうかという疑問はある。 

蜂や蟻ならばそれを絶対善の定義としても差し支えないかもしれない。彼らは常に巣を単位とする集団の為に尽くしている。必要とあれば自分の実を犠牲にすることもいとわない。その行為には一片のためらいもブレもないのである。彼らにとっては、「本能=善」である。進化論的に考えればそれも当然である。蟻も蜂も、同じ女王蜂から生まれた兄弟姉妹で巣を構成する。巣単位に淘汰圧にさらされるからである。 

人間も社会的動物であるから共同体単位で淘汰圧はかかるが、同時に個体単位でも淘汰のふるいにかけられる。集団単位の闘争になれば、犠牲的精神をもつ個体が多いほどその集団が生き残る確率が高くなる。しかし、その集団内では利己的にうまく立ち回る個体の生き残る確率が高くなるのである。ここにわれわれ人間の不幸がある。我々は皆、公のために犠牲になることを美徳としながらうまく立ち回ってきたものの末裔なのである。 

私の伯父は特攻隊の生き残りであった。特攻隊に選抜されたところで終戦になったのである。伯父が言うには、クラス全員が特攻隊に自由意志で志願したのだそうである。「死にたくない」などと言う臆病者は一人もいなかったらしい。なるほど全員が同じように献身的であれば、誰が生き残っても献身的な遺伝子の減少は防げるので問題はないはずだが‥‥。特高志願した伯父は「心底純粋な気持ちで志願した。」と胸を張って言ったのだが、しかし、彼の母である私の祖母の見方はもっと現実的である。「選抜されたのは皆貧乏人の子供ばかりやった。あのときの教師の顔は死んでも忘れへん。」  

人間は犠牲的精神だけをもっているのではなく、自分だけ生き残りたいという利己的な意志やそれをけん制するセコイ精神も併せ持っている。私達はそういうアンビバレントな存在であるから、「公のために尽くすことが絶対善である」と言っても、それは偽善である可能性が多分にある。そもそも、つくすべき「公=集団」の本質というものを規定できるかが疑問である。戦時中は国家という公のために命を差し出すのが最高善とされていたけれども、それは人類全体という公のための貢献にはなっていない。 

そして、時には罪を犯した肉親や友人ををかばったりすることも美徳に見えたりする。人間は一筋縄ではいかない複雑さをもっている。絶対善はそう簡単に定義できるものではないだろう。