超越と実存 (南直哉)

南直哉さんは思想を仏教と仏教以外にまず大別する。それらを区別するためのキーワードが超越である。超越とは我々の経験や認識の範囲を超えるもののことを言う。例えば一神教の神様のようなものである。実存というのは規定するのは難しい。とりあえず、今感じている生身の感覚としておこう。

仏教は実存的な視点から世界を眺めることから始まる。そこに超越的なものを容れなければ、すべてのものに根拠がないことに気がつく。それが無常である。それを無常というのは定まった形がないからである。不断に流動しており、何かの形でとどまるということがない。常に過渡的かつ不完全で偶然的であるということが無常であるということである。

西洋には、世界は神が創り給うたものという思い込みが抜きがたくあり、したがってこの世界のすみずみまで神の理性が行き渡っていると考えられている。つまり、この世界は神の意図する超越的原理によって支配されているということなのだが、それを信じることができれば楽である。神の意図するところが真理であり善であるのだから、人はそれに従っていけばよいのである。

仏教徒はなかなかそういう訳にはいかない。目の前に無常が横たわっているが、その根拠は分からない。なすすすべもなく実存の不安におびえていなくてはならないのか? 仏教はそこで、その不安はその「実存」を実体視することからくるのだと説く。単なる関係性に過ぎないものを実体視しすることを無明と言い、それに執着することを煩悩というのである。実存を実体視する根拠は内在していないのだから、それは超越的に導入されたものに違いないと考えるべきである。すなわち無我であるということである。無我であることを知り、人は執着から解き放たれるというのが

人は「なんであれものごとにはそうである理由がある」という充足理由率という原理に支配されがちである。しかし、それも超越的な原理に過ぎない。超越を排除するということは、そもそも実存の根拠を問う理由がないということである。無常をそのまま受け入れる、そのような諦観に到達することが釈尊の説くところであろう。

以上のようなことを念頭に置いておけば、南師のいうところはすんなり腑に落ちる。南氏は「超越を排除」するという原則を貫くことによって、現職の僧侶としてはかなりラディカルなことを言ってのけている。この原則に照らすと、現在の日本の仏教というのはほとんどが釈尊の意図するところからは逸脱していることになってしまうからである。その徹底ぶりが小気味よい。まさに、「仏に逢うては仏を殺せ」と言うが、禅僧の面目躍如たるものがある。

第9章の「親鸞道元の挑戦」における親鸞に関する論考は私個人にとっては最も興味深いものだった。末橙抄の自然法爾章の「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。」を含む一節を引いて、親鸞が既に阿弥陀信仰から実質的に逸脱していることを述べている。素朴に考えればその通りなのだが、真宗教団が聞けば目をむくようなことを現職の僧侶が指摘する、これはなかなかインパクトのあることである。

最後に一つだけ注文をつけておきたい。163頁において、無門関第一則の「趙州無字」の「無」について「中国禅が老荘思想を背景に案出した、独自の超越的理念である。」と断じているが、いささか勇み足ではないかと思う。それでは禅門で最重要とされている公案が無意味なものになってしまう。私見では「無」は超越的理念などではありえない。哲学的に表現すると、それは「存在者ではない」ということそのことを指す。一般に、「世界は有る」とか「自分は有る」とか信じられているが、実はそれらは「金がある」とか「机の上にリンゴが有る」とかいう意味の「有る」とは同じ意味ではない。金が無かったり、リンゴが無かったりすることは考えられるが、世界が無かったり自分が無かったりすることは想定できない。

つまり、「世界」も「自分」も存在者ではないのではなく、それは所与なのである。なぜか、この世界は私の世界として開けている。常にそうなのである。そうでないことは考えられない。そのこと自体を「無」という言葉で表現しているのである。決して特殊な心理状態や超越的理念などではない。映画で言えばスクリーンのようなものである。映画の中にスクリーンは登場しない、いわば「無」であるが、映画はその「無」の上に展開されるのである。

自分自身がなんであるか、肉体や感覚などの対象化できるものをすべて除外していったその先に到達するのが「無」である。そんなものあり得ないと言ってしまったら、この世界が私の世界として開けている、ということはなかったはずである。それは有るとも無いとも言えないが、所与であると言っておこう。