私はなぜ私なのか?

前回記事では、「世界はなぜあるのか?」という問題は、あまりにも根源的過ぎるがゆえに疑似問題である、というようなことを述べたのだが、今回は、この問題に劣らず根源的な問題として、「私はなぜ私なのか?」ということをとり上げたい。

唯物論者は精神活動もすべて物質的な物理現象に還元されると言う。脳や脊髄ができれば自然とものを考え出すらしいのだが、そんなこと言われても、「私の比類なさ」というものは決して解消されない。毎日々々生命が生まれかつ死んでいる、あまたある生命の内で、なぜよりにもよって私は私として生まれ生きているのか、ということが問題として残るのである。あくまで、この世界は私の世界として開けている。他の人の目ではなく、私の目からしかこの世界は見えないのである。「天上天下唯我独尊」というのはこのことを指すのだろう。そういう意味で、この世界は私の世界である。そこまで思い至れば、この問題が「世界はなぜあるのか?」という問題と通底していることがわかるはずである。

「世界はなぜあるのか?」という問題が成立するためには、「世界がない」状態というものが想定されなければならないように、「私はなぜ私なのか?」という問題が成立するためには「私が私でない」という状態が想定できねばならない。あまりにも「当たり前すぎる」ことというのは、それがどういうことであるのかが分かっていない、ということを常に疑う必要がある。

「私が私でない」という状態を想定することなど簡単だと思われるかもしれない。自分がクレオパトラになったところを想像すれば良いではないか、と言う訳にはいかないのである。それでは、「世界がない」状態としての暗黒の宇宙を想像するのと同じことである。私がクレオパトラになったところを想像したとしても、私の肉体がクレオパトラの肉体になっている状態を想像しているだけのことで、あくまで私は依然として私でしかないからである。どんな状態になっても私は「私は私だ」と言い続けているはずである。

己事究明を第一課題として掲げている禅においても、「私はなぜ私なのか?」ということは当然問題にされなければならない。無門関第35則(参照==>「倩女離魂」)はそのことに関する公案である。心を引き裂かれた女性が二人の人間に分離してしまう。一人の人間が二つの人格に分割されることを想像できるなら「私はなぜ私なのか?」という問いに答えることができる見通しがつく。禅者ならそれができるかもしれない。しかし、哲学的にはこれは疑似問題である。