リベットの0.5秒

最近の脳神経科学の進歩は目覚ましいものがあるが、とりわけ1980年に発表された「リベットの0.5秒」はかなりショッキングな発見であった。それは、我々が例えば腕を上げる場合、実際に腕が上がる0.55秒前に脳はそのことを決定しているというような内容であった。

その後の追試により、それはほぼ事実であるということが確かめられているらしい。私が腕を上げる動作をする際、腕を上げることを「意志」して実際に上がるまでに0.2秒かかる。しかし、その「意志」を意識する0.35秒前から私の脳は腕を上げることを決定しているというのである。つまり、私達はものごとを判断し実行する際に、自分の意志でそれを決定していると思っている。しかし、決定したと意識した瞬間の0.35秒前に本当は決定していたというのだ。(意思決定の瞬間をそのように特定できるはずがないという意見もある.)

私は脳科学には疎いので、この実験の意味を正しく理解しているという自信はないが、私達の見ているこの「現実」は実は本当の現実ではなくて、それを0.35秒遅れでモニターしているだけだ、と言われているようだ。
自由意志とは何かという定義はとても難しいが、素朴に考えて、「ものごとを認識し判断を下す」というところにあるのだと思う。ところが、リベットの実験では、その認識した時点ではすでに判断が下されている、となると自由意志は単なる見かけ上の話ということになる。そうだろうか?

例えば、空手の試合について考えてみよう。私は突きや蹴りをいちいち考えながら繰り出すわけではない。しかし、完全に無意識のまま闘っているというものでもない。一応、私の体は私の闘う意志が支配していると言いたい感じがする。私の意志による動機がなければ私の体は動かないはずだ。

もしかしたら、その「意志による動機」というものも機械としての私の脳が作り出したものだ、と言われると私に反論の余地は無くなるが、それでもなお「それがどうした?」と言い返したい気持ちが私にはある。

私の見ている現実は、科学的な見地からすれば0.35秒遅れのモニター画面というのかもしれないが、実存的視点から見れば唯一の「現実」である。もし、この「現実」を現実と見て矛盾が生じるというのであれば、それは錯覚あるいはまぼろしと言ってもよいだろう。しかし、そのような破綻がない限り、むしろそれを現実と見なさない理由は見当たらない。脳科学的(超越論的と言ってもよい)には、われわれの見ている「現実」は単なる表象とも言えるかもしれないが、経験的には実在そのものである。そして、(脳科学から見て)0.35秒前の真の現実は物自体になぞらえることができる。実存的立場から言えば認識し得ないものを実在であるとすることはできない。あくまで私が見ているこの「現実」こそが実在であり、0.35秒前の超現実は推論によってのみ成立している構成物に過ぎない、と私は思うのだが‥‥。

自由意志とは、立ちたいときに立ち、座りたいときに座る、そういう意味ではなかったかと思う。科学が進歩すれば、その「立とうとする意志」も脳内の物理現象に還元されてしまうということも考えられる。そうすると科学的な視点からは、人間も精密な機械に過ぎないということになってしまう。すると、人間は自分の行為に責任能力を持てない、そういう話なのだろうか?

犯罪者が法廷で、「確かにそれは俺がやったことに違いないし、俺も悪いことをしたという感じはするけれど、でも、本当は俺の脳が勝手にやったことで、俺にはどうすることもできなかったんだ。」と言い分を認めなくてはいけないのだろうか? (ある意味においては、私は彼の言い分を認めています。)

自由意志については、「原因のない自発性」に基づいていなくてはならないという思い込みがある。その意味するところが極めて不明確、と言うより単なる幻想にしかすぎないと私は思う。機械論的に意思決定されれば責任の所在が分からない、というのであれば、「原因のない自発性」に基づく行為も同様である。かつてはこの「自発性」を量子論の不確定性理論のせいにする論調も多かった。
しかし、究極的な責任能力を問えないという点においては、どれも同じである。科学的な思考の枠組みでは、意思決定過程の中に人知を超えた「不確定要素」があるかどうかが問題になるだけのことであって、どのみち人間の行為は不可抗力になるに決まっているのである。責任能力というのはあくまで、実存的な視点からしか生まれてこない。科学の呪縛にとらわれて、素朴な感覚を見失ってはならないと私は考える。

心はどこにある?

この問題の難しさは、位置というものの絶対的な基準がないことにもあるが、心というものがなにを指すのかがそもそも明確でないことにある。位置というのは物の世界におけることであり、物と心の関わりというものが明確でないかぎり位置も示せないはずである。。だとすれば、心がどこにあるかを特定できると考える方がむしろおかしいような気がしてくる。 

思うに、たいていの人は目の後ろの方、つまり脳でものを考えているように感じているのではないだろうか、実は私もそのように感じていた。しかし、そのように感じるのは、精神の中に占める視覚の比重が大きいからではないかと思う。もし、眼が膝頭についていたら、膝裏で考えているように感じるということもあったのではないだろうかと私は思うのである。 


虚心坦懐に反省してみると、パソコンに向かっている時は文字が語りかけてくる。私の思考はディスプレイ上で展開されている。手を伸ばしてものを掴もうとするとき、掴もうと意志しているのは私の手である感じがする。他人と怒鳴りあいをしている時、怒っているのは私の口ではないだろうか。 

「私が悲しい時、世界が悲しんでいる。」という言葉を誰が言っていたのかが思い出せないが、言い得て妙だと思う。私が悲しいとは、世界が悲しみの相貌を帯びていることだろう。実は、心はそのような広がりをもっている。

私はなぜ私なのか?

前回記事では、「世界はなぜあるのか?」という問題は、あまりにも根源的過ぎるがゆえに疑似問題である、というようなことを述べたのだが、今回は、この問題に劣らず根源的な問題として、「私はなぜ私なのか?」ということをとり上げたい。

唯物論者は精神活動もすべて物質的な物理現象に還元されると言う。脳や脊髄ができれば自然とものを考え出すらしいのだが、そんなこと言われても、「私の比類なさ」というものは決して解消されない。毎日々々生命が生まれかつ死んでいる、あまたある生命の内で、なぜよりにもよって私は私として生まれ生きているのか、ということが問題として残るのである。あくまで、この世界は私の世界として開けている。他の人の目ではなく、私の目からしかこの世界は見えないのである。「天上天下唯我独尊」というのはこのことを指すのだろう。そういう意味で、この世界は私の世界である。そこまで思い至れば、この問題が「世界はなぜあるのか?」という問題と通底していることがわかるはずである。

「世界はなぜあるのか?」という問題が成立するためには、「世界がない」状態というものが想定されなければならないように、「私はなぜ私なのか?」という問題が成立するためには「私が私でない」という状態が想定できねばならない。あまりにも「当たり前すぎる」ことというのは、それがどういうことであるのかが分かっていない、ということを常に疑う必要がある。

「私が私でない」という状態を想定することなど簡単だと思われるかもしれない。自分がクレオパトラになったところを想像すれば良いではないか、と言う訳にはいかないのである。それでは、「世界がない」状態としての暗黒の宇宙を想像するのと同じことである。私がクレオパトラになったところを想像したとしても、私の肉体がクレオパトラの肉体になっている状態を想像しているだけのことで、あくまで私は依然として私でしかないからである。どんな状態になっても私は「私は私だ」と言い続けているはずである。

己事究明を第一課題として掲げている禅においても、「私はなぜ私なのか?」ということは当然問題にされなければならない。無門関第35則(参照==>「倩女離魂」)はそのことに関する公案である。心を引き裂かれた女性が二人の人間に分離してしまう。一人の人間が二つの人格に分割されることを想像できるなら「私はなぜ私なのか?」という問いに答えることができる見通しがつく。禅者ならそれができるかもしれない。しかし、哲学的にはこれは疑似問題である。

答えのない問題は疑似問題である

世の中にはいろいろ難しい問題がある。しかし、どれほど難しい問題であろうと、それがなにを問うているのかがわかれば、答えの形式については分かるものである。「テーブルに置いてあった大福が無くなったのはなぜか?」という問いならば、「食いしん坊の哲が食べてしまったからだ」というような解答が期待される。フェルマーの定理を証明することは私には到底できないが、公理から始めて論理を演繹していきその定理に到達すればよいのだということくらいは分かる。 

では、「世界はなぜあるのか?」という問いには、どのような形の解答が与えられるべきだろうか? たいていの人は見当もつかないはずである。「ビッグバンによっていきなり世界は始まった」というような回答は駄目である。科学で説明できるのは、せいぜい現象の移り変わりを法則によって説明するだけのことに過ぎない。「世界はなぜあるのか?」という問いには、そもそもそのような法則がなぜあるのかということも含まれているはずである。 

解答の形が想像できないという意味で、「世界はなぜあるのか?」という問いはたぶん疑似問題だろうと思う。疑似問題というのは一体何を問うているのかが分からない、つまり問題の意味が分からない、だから答えようもない、そういう問題のことである。私はいとも簡単に「世界はなぜあるのか?」とつぶやいて見せるが、実は自分で自分が何を言っているのかが分からない、そういう意味である。 

おそらく私たちは「世界がある」ということの意味がわかっていないのだと思う。と言うとあなたは、「だって世界は現にあるじゃないかっ!」と色をなして反論するかもしれない。しかし、「世界がある」ということがわかるためには、「世界がない」という状態がどういうものであるかも分かっていないと、そういうことは言えないのである。私達は決して「世界がない」状態を想像することはできない。「世界がない」場合には、それを想像するあなたもいないからである。あなたがいないことをあなたが想像するというのは、暗黒の宇宙を想像することとは別のことであるということを知っていなくてはならない。 

「無記」というのは、仏教における疑似問題への態度のことを言うのだと思う。

不可能物体

著名な宇宙物理学者であるペンローズは、一時期三次元空間の論理に反する物体を考えることに熱中したらしい。論理に反するものは想像することさえ不可能なはずだが、不可能に挑戦するのが天才の天才たるゆえんなのだろう。その結果として、ペンローズの三角形というものを考案することに成功したらしい。 

興味津々でインターネットを検索してみた。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE%E4%B8%89%E8%A7%92%E5%BD%A2 

なるほどと言うか、やっぱりと言うか。そういうことか‥‥。 
有名なエッシャーの絵はペンローズの三角形からインスピレーションを得たものだと言われている。

無限大というのはあるのか?

哲学者のウィトゲンシュタインは、自然言語(日常語)で人間の考えることはすべて言い表せると考えていた。それどころか、過剰な表現力により思考し得ないものまで表現してしまう。若い頃は、哲学上の問題のほとんどがそのような言葉の誤用であると考えていた。

すべての盾を貫き通す矛とすべての矛を撥ね返す盾。そのように存在しえないものを言葉では表現できる。表現はできても、その指示対象であるものがどのようなものであるかは私達にはわからないのである。

ウィトゲンシュタインが生前に残した唯一の著書「論理哲学論考」に次のような一節がある。

 6.021 数は操作の冪である。

冪(べき)というのは繰り返しを重ねることの意味にとるべきだろう。現代数学では数を実在のものとして扱うが、ウィトゲンシュタインは「操作」の繰り返しであると解釈する。するとどうなるか?

数は操作であるから、はじめからそれが存在しているものとしては扱えない。現代数学では「すべての自然数」を既存のものとして扱うことができるが、数が操作であればそれはできない。数が操作であればそれはすべて枚挙されたものでなくてはならない。自然数は限りなくあるわけだから枚挙しきれるわけがないのである。そして、ウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」においてこうも言っている。

 6・031 集合論は数学では全くよけいである。

ウィトゲンシュタインにとって、無限とは文字通り「限りがない」つまり数えきれないという意味以上ではないのだ。それに対し、現代数学では矛盾なく定義できさえすれば、すべて数学的実在として扱える。だから自然数の全体だとか平面上の全ての点の集合であるとかを「実無限」として簡単に扱えるのである。集合論のほとんどの重要な成果は無限集合に関するものだと言っても過言ではない。もし、ウィトゲンシュタインの言い分を受け入れるならば、数学は今までなし得たことのかなりのものを失うことになってしまうだろう。

しかし、ウィトゲンシュタインの言い分にも一理あることは確かなのである。自然数全体などというものをわれわれは決して直観することはできないし、無限集合の全体と部分は一対一に対応するなどという直観に反することがなにを意味しているかを具体的に理解することができないのである。

代数学を肯定する立場を(数学的)「実在論者」、ウィトゲンシュタインのような立場を、「構成主義者」とよぶ。現在のところ構成主義者は劣勢であるが、いまなお決着がついたわけではない。

多宇宙論について (ジム・ホルトの「世界はなぜ『ある』のか」を読んで)

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」 

なぜ答えのないこの問題を我々は考えたがるのだろうか?おそらくそれは、私たちの脳みそが、何も無い状態がニュートラルであると思っているからだと思う。まず何も無い状態が基本である、と私たちの脳は考える。数学の座標の原点は0である。自然数集合論では0から始まる。 
なにかが有る状態というのはさまざまなバリエーションがある。つまり、どの具体的なケースを取り上げてみても「偏り」がある。だが、無い状態というのは一意的に決まってしまう。偏りがないのである。「無い」ことが思考上の原点として意識されることについては十分納得できる。 

なのに、この我々の住む世界というのはあまりにも特殊である。ことにこの地球には自己組織化した生命体があり、自分自身を意識する私たちがいる。偶然できたにしては、あまりに特殊過ぎる。 

ここには、「特殊過ぎる」=>「有りえない」という感覚が働いている。 

この『特殊感』を減殺する方法としては2つ考えられる。ひとつは、この世界をこのようにあらしめている大いなる意思、つまり神さまを設定することだが、もう一つ、ジム・ホルトの「世界はなぜ『ある』のか」には「多宇宙論」というのも紹介されている。 
それによると、我々がいる宇宙とは別にあらゆるバリエーションの宇宙が存在するらしいのだ。それぞれの宇宙は没交渉でいわゆるパラレルワールドとして存在している。 
とにかくあらゆるバリエーションの宇宙があるので、たまたま私がいるようなこんな特殊な世界が有ってもちっとも不思議ではない。 

おもわず、「えーっ、そこで納得するんかい!」と言いたくなるのだが‥‥。 

とにかく、この問題に人々がいろんな思考を巡らしていくことについては興味が尽きない。実に面白い。