答えのない問題は疑似問題である

世の中にはいろいろ難しい問題がある。しかし、どれほど難しい問題であろうと、それがなにを問うているのかがわかれば、答えの形式については分かるものである。「テーブルに置いてあった大福が無くなったのはなぜか?」という問いならば、「食いしん坊の哲が食べてしまったからだ」というような解答が期待される。フェルマーの定理を証明することは私には到底できないが、公理から始めて論理を演繹していきその定理に到達すればよいのだということくらいは分かる。 

では、「世界はなぜあるのか?」という問いには、どのような形の解答が与えられるべきだろうか? たいていの人は見当もつかないはずである。「ビッグバンによっていきなり世界は始まった」というような回答は駄目である。科学で説明できるのは、せいぜい現象の移り変わりを法則によって説明するだけのことに過ぎない。「世界はなぜあるのか?」という問いには、そもそもそのような法則がなぜあるのかということも含まれているはずである。 

解答の形が想像できないという意味で、「世界はなぜあるのか?」という問いはたぶん疑似問題だろうと思う。疑似問題というのは一体何を問うているのかが分からない、つまり問題の意味が分からない、だから答えようもない、そういう問題のことである。私はいとも簡単に「世界はなぜあるのか?」とつぶやいて見せるが、実は自分で自分が何を言っているのかが分からない、そういう意味である。 

おそらく私たちは「世界がある」ということの意味がわかっていないのだと思う。と言うとあなたは、「だって世界は現にあるじゃないかっ!」と色をなして反論するかもしれない。しかし、「世界がある」ということがわかるためには、「世界がない」という状態がどういうものであるかも分かっていないと、そういうことは言えないのである。私達は決して「世界がない」状態を想像することはできない。「世界がない」場合には、それを想像するあなたもいないからである。あなたがいないことをあなたが想像するというのは、暗黒の宇宙を想像することとは別のことであるということを知っていなくてはならない。 

「無記」というのは、仏教における疑似問題への態度のことを言うのだと思う。